昭和43年8月3日       夜の御理解



 今日親教会のご大祭のために一時の昼の御祈念を、私はご無礼いたしました。私あの、御理解を頂いていなかったですから、その、そこのところを今日は頂いてみましょう。
 今日は、昨日は、「体の丈夫を願え」ということでしたが、今日はその次ぎの「体を作れ、何事も体がもとなり」と。「体を作れ、何事も体がもとなり」とあります。そのことをどういう風に、こう頂いたよいだろうか。
 この「体の丈夫を願え」ということは、丈夫であっても、丈夫が丈夫の、丈夫うえにも丈夫であるという事を願えということにもなるけれども。昨日はこれは例えば、体の弱い人。弱い人が、弱くては神様の御用も出来ませんから、そこんところをまぁ願えと教えて下さっておるとして御理解を頂きましたね。
 医者もよかろう。薬もよかろうけれども、医者や薬でいやすのではなくて、そのいやす大元というのは、神様のお働きであるということを頂きましたんですね。で今日のここんところは、「体を作れ、何事も体がもとなり」と。いうならば体の丈夫を願えと仰る、丈夫なうえにも丈夫を願うという、同じ事ですけれども、わざわざここ二つ並べて別々にみ教え下さっておるところは、だからどういう風にここを頂いたら良いだろうかと。
 「体を作れ、何事も体がもとなり」と。体を作れとこうおうせれおられますよね。そこで私は御理解の方を只今頂きましたら、今あの少年少女会が出発いたしました。御祈念前に。その時にやはりこの59節を頂いたんです。
 これはまぁどういう意味なことなのか分からんけれども、御理解59節を頂いて、習うた事を忘れてもどしても、師匠がどれだけ得をしたということはない。覚えておって、出世をし、あの人のおかげでこれだけ出世したと言えば、それで師匠も喜ぶおかげ。喜ぶおかげを落としては、神も喜ばん。おかげを受けてくれれば、神も喜び、金光大神も喜び、氏子も喜びじゃ、というような御教えを頂いたんですから。まぁ少年少女会にそのどこを頂かせようとなさった御神意か、私もちょっと見当がつかないくらいでした。
 同時に私、心が淋しゅうなりよる。私はもう神様にちょっとこう、ヒントを頂くともうどんなに意気消沈しとっても、一遍に元気が出ますし。どんなにききとしとっても、神様にちょっとそこを頂きますと、もう人の話(とうとう思いよらん?)くらいにそのことに思い詰めてしまう性分ですがね。今日はそういう例でした。
 もう、あの家内が横で話しよっても、何ていいよるかは最近分からないくらい。久富さんが側でご飯の時に、あのおって下さるですけれども、何て言って話よんなさるやいっちょん受け返答出来ないくらいにその事ばっかり考え詰めておった。
 まぁどういう事であろうかと。おかげを落としては神は喜ばん。だからおかげを受ければ、神様は喜んで下さるのであるから。神様に喜んでもらえるようなおかげを頂いてもらいたい。
 少年少女会なりにです、ね、日頃信心の稽古をしておりますから。日頃教えて頂いておる事をしっかり守って、まぁ御本部参拝して下さいよと。まぁそういう風に申しましたけれどもです、おかげを落としては神が喜ばんと仰るところが、もう気になって気になってたまらなかった。
 それで私まぁ、夕食もしておりませんでしたので、もう私は、今日の御祈念は遅くなってもかんまんとこう思うて、気分が練らなければいけないから。食事の準備が出来たなら食事を頂こうと思うて、お食事をこう頂いたんですけれどもね。
 そして、その終わって立たせて頂こうと思うたら、丁度九時でございました。丁度御祈念の、あらまだこんなに速かったんだなと思うて、さぁここへ座ったんですけれども。何とはなしにですね、それで何か心がすきっとしたような感じがしたんです。
 ね、私の心の暗いものが、何か一遍に晴れたような気がしたんです。そして今日のお昼の御理解の頂いてない事を、気付かせて頂いてから、まぁ今晩それを頂くわけでございますが、昨日の「体の丈夫を願え」という事を、一応聞いて頂いておって、例えていうなら、同じようなことでございますからね。
 ですから、誰でも丈夫なうえに丈夫を願う、またそういう意味もこれには含まれておると思うんですけれども、私は昨日はそこんところは説きませんで。これは体の弱い人。例えば病気なら病気、怪我なら怪我をしておる人。そういう人がどうぞ神様のお役に立つようなお働きが出来ますような、体にならせて下さいというて、丈夫でない者が、に対するみ教えであるとして昨日は説いております。
 けれどもこの感じから受けましてもね、体の丈夫を願えと仰る事は、やはり丈夫なうえにも丈夫を願うということも含まれておるようですけれども、その次にです、「体を作れ、何事も体がもとなり」とあるのですから、これはやっぱりいらない感じですもんね。
 丈夫なうえにも丈夫を願うのではなくて、体を作るという事を願うていったら。何事も体がもとなりということを頂いて行ったら良い。ですから、体を作るというようなことはどのような事であろうかと思うて、なら今又、ここ開かせて頂きましたら、只今少年少女会が出発するにあたって頂いた御理解59節ですね。
 習うた事を忘れて、もどしてはという事である。そこで私は思うんですけれどもね、習うた事を忘れてからならまだ良いと私は思うんですよ。ね、忘れたんだから。けれども習うたことを知っておって、覚えておってそれを行じないという事は、私はいよいよおかげ落としのもとだと思うですね。そうでしょうが。
 いわゆる実意丁寧神信心に反しますもん。いわゆる横着です、わがままです。習うた事を忘れて、でもそれは師匠は喜ばんと仰るがです、習うた事を覚えておって、ね、知っておるけれども行じない、知っておるけれども守らない。これはいよいよ、私はおかげ落としのもとになるとこう思うですね。
 今日そこんところを下さったように思うんです。ですから、体の、「体を作れ、何事も体がもとなり」と仰る、体を作るということはどういう事なのか。これは積極的に、例えば運動をするとか。又は栄養になるものを頂くとか。ね、そこに私は体、体を作れ。神様が作ってやると仰ってない。体を作れと、そこに努力をせよとこう仰っておられる。
 ですからその、体を作らなければいけん。それにはならまず、なら栄養になるものも取らなければならない。又は適当な運動もしなければならない。そこで私は今日のこの59節から、又それを思うのですよね。
 ははー、習うた事を忘れてとこう仰るが、忘れた場合仕方がない。神様もせめなさったっちゃしようがない。忘れたんだから。ね、けれども、忘れてもいない、知ってもおる。こうしなければおかげ頂けんことが分かっておるのに、こうしない。これは神様に対してご無礼であり、いわゆる実意丁寧ではない。横着だと。怠慢。
 私は直ぐ、今また改めて気付かせて頂いたんです。そこで体を作れということはですね、私共が積極的に、積極的に栄養をとるとか、運動をさせてもらうということであって、これをいわゆる心の体。ね、心の行。ね、おかげのもとは心なのですから、その心が丈夫でさえあればです、心が丈夫でさえあれば、いよいよおかげが頂かれる。
 心が健康であれば必ず、肉体の健康も約束されると同時に、お道の信心では、おかげのあるもなきもわが心と仰るのですから、そのわが心がおかげを呼ばないはずがない、頂けないはずがないのです。
 それには栄養をとらなきゃならない。そこにはあれは好かん、これは好いとるなんて言わずに甘いものでも、辛いものでも、苦いものでも。こりゃ苦いから、などといわずに、それをやはり神様頂きますという心持ちで、その苦いものを頂かせてもらうところに、心の胃腸が丈夫になる。
 こげなくさかもの食べません。などといわずにです、それを頂かせてもらうところに、それはにんにくなどが体に大変よい栄養になると言われておりますようにですね、いよいよ心の栄養にもなることなのですから、私共の周辺に起きて来る、いわゆるそれこそ、にがい事もありゃ臭い事もあるけれども、それを有り難く合唱して受けていくという事がです、心の体を丈夫にする事である。
 又は体を丈夫に、体の丈夫を願えということはそういうような事でもあるという風に、又感じさせてもらいました。いわゆるこの59節からそう思うた。習うた事を忘れては、と仰るが、習うたことを知っておりながら行じない。これは必ずおかげ落としのもと。これでは金光大神も喜ばぬ、神も喜ばぬ、氏子もいよいよ馬鹿らしい話しである。
 ね、神も喜び、氏子も喜び、金光大神もの喜びじゃと仰るようなおかげを頂くためにも、いよいよ体の丈夫を願わせて頂く、同時に心の体ね。いよいよ心が健全である事を願うためにはです、ただ願うただけじゃいかん。作れと仰るのだから、自分で努力しなければいかん。
 それには、ここにいやな問題、それこそ苦い問題、臭い問題があろうけれども、それを合唱して受けて行くところにです、いよいよ栄養にもなろう、丈夫の基にもなろうと私は思うのでございます。どうぞ。

梶原 佳行